第144回 稲荷大名神【若林区種次】

  • 2013.08.14 Wednesday
  • 06:36
【訪問日】2013/06/23

若林区種次(たなつぎ)地区にある稲荷大名神です。明治41年に藤塚の五柱神社に合祀されています。
【地図】


用水路に架かる橋を渡って神社に接近。右後方の橋は仙台東部道路です。
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第124回 浪分神社、狐塚の祠【若林区霞目、荒浜】

  • 2011.06.09 Thursday
  • 10:04
【訪問日】2010/09/23,2011/03/08

 地震後に新聞に掲載された浪分神社狐塚の地震前の姿。


 狐塚。左側は県道塩釜亘理線。近づける道が無く、ぬかるんだ畦を歩くしかありませんでした。【地図】


 私の大っ嫌いな蜘蛛が大量にいました。

狐塚
 祠は小ぢんまりとしていました。

 2011年5月26日付の河北新報には「竹駒神社と塩釜神社を行き来する『おキツネさまの休憩所』と伝えられてきた」と記されています。それが本当であった かどうかはさておき、狐塚という地名は全国に存在します(市バス東部工業団地線の終点も「狐塚」ですね)。民間信仰において狐は田の神の使いだと考えら れ、元は田の近くに塚を築いて祭場とし、後に稲荷神を勧請して祠を建てたりしました(Wikipediaより)。この場所もよくある祭場のひとつだったのでしょう。お社は17年ほど前に造られたそうですが、その前から小さな石祠や石碑の類はあったのではないでしょうか。


浪分
 浪分神社。ここを訪れたのは地震の3日前でした。

○浪分神社(なみわけじんじゃ)【地図】
【祭神】不明
【旧社格】旧村社(旧霞目村)
【備考】若林の旅立稲荷神社に合祀


 道路に面した社殿。向かい側にはコンビニがありました。


 鳥居の脇にはお地蔵さまが祀られていました。

 若林区のHPによると、「元来は元禄16年(1703)に霞目の八瀬川に建てられた稲荷社だったが、天保6年(1835)に現在地に移されて浪分神社という名になった。七郷一帯は標高が低く、昔から津波や洪水の被害が大きかった。慶長16年(1611)の慶長大津波では霞目まで水が押し寄せ、1700人を越える死者を出している。天保期に、慶長の大津波が二つに分かれて引いた場所に稲荷社を移し、津波よけの神社とした。この神社には、白馬にまたがった海神が大津波を南北に分けて鎮めたという伝説がある。」とのこと。ちょうど神社が微高地にあったために津波が分かれたのでしょう。869年の貞観津波の際に建てられたという説もあります。

 このような神社があったからといって、今回の津波において「教訓を生かすことができなかった」と言うつもりはありません。地質調査(ボーリングで地中の津波時の堆積物を採取し、年代を測定します)の結果では、おおよそ1000年周期で同規模の津波が仙台平野に押し寄せてきていたことになるそうです。






第30回 四社宮【若林区新寺】

  • 2010.06.26 Saturday
  • 02:20
【訪問日】2010/03/28
【地図】

 四社宮(ししゃぐう)
 新寺通りからコンビニ脇の道を入ったところに。

140.JPG
 狛犬が狐なので稲荷神社なのでしょうか?
 大河原町から仙台に移ってきた鉄砲組が大阪冬・夏の陣に出兵し、全員無事に帰還できたことから、これを神のご加護と考え先住の地の大河原から四社明神を勧請したもの、だそうです。
 一説によれば支倉常長がローマに渡る際に海上安全を祈願し賽銭箱を奉納したとも伝えられ、支倉常長揮毫の賽銭箱の表板が社殿に掲げてあるそうですが画像はありません。

第29回 毘沙門堂(満福寺)【若林区荒町】

  • 2010.06.25 Friday
  • 22:28
【訪問日】2010/03/28
【地図】

 荒町商店街の中にある毘沙門堂(満福寺)
 荒町と言えば奥州街道筋にある、仙台の中でもひときわ賑やかであった街です。大正の地図を見ると、当時市内に3か所しかなかった電話ボックスが置かれている(あとの2か所は仙台駅前と小田原遊郭)ことからもそれがわかります。


 少し長い参道。右の建物は専門学校。
 この写真の左端に写っている石の塔のようなものが「奇縁二天石」と呼ばれるもの。尋ね人などに使われました。左側面に「たずぬる方」、右側面に「をしゆる方」と刻まれています。「たずぬる方」に尋ね人の特徴を書いたメモを貼り、それに心当たりがある人が「をしゆる方」に返事を貼る、という具合。そのくらい人の往来が多かった、ということでしょうね。


 毘沙門堂は「奥州仙臺七福神」のひとつにされています。


 こちらが毘沙門堂。福徳と子育ての神様として信仰を集めています。


 こちらは隣りにあった子安観音と…すみません、失念しました。


☆伝説の横綱、谷風

 江戸時代にはこの毘沙門堂が相撲の興行場所に指定され、藩内の相撲興行の中心地となりました。
 さて、江戸時代の力士に「谷風梶之助」(2代目)という人物がいます。旧七郷村の出身で、七郷掘の掃除に来ていたところを巡業中の相撲部屋にスカウトされたといいます。
 谷風は大相撲史上屈指の強豪で、江戸本場所における通算成績は49場所258勝14敗16分16預5無勝負112休で勝率9割4分9厘、優勝相当21回という凄まじい記録が残っています。実質的な初代横綱であり、63連勝という連勝記録を昭和に双葉山に破られるまで150年もの間保持し続けました。
 谷風は44歳のときにインフルエンザでこの世を去りました。お墓は霞目の自衛隊基地の隣りに、荒町の東漸寺には石碑があります。東漸寺は谷風の菩提寺で、以前は霞目にあったらしいのでお墓自体は荒町に移ってこなかったのでしょうね。

第28回 三宝大荒神【若林区成田町】

  • 2010.06.25 Friday
  • 21:18
【訪問日】2010/03/28
【地図】

 木ノ下から大分歩き、荒町にある三宝大荒神までやって来ました。


 五橋方面から荒町商店街を通り、突きあたりの信号まで来るとその左側にあります。笑いながら写っているのは一緒に神社を周ってくれる友人のH君です。


 社殿。三宝荒神は日本独自の神様で、不浄や災難を除去する神とされることから火とかまどの神として信仰されることが多いです。南鍛冶町の近辺なのでこの場所に祀られたのですね。


 境内にある耳権現。説明文によれば、耳患いで苦慮していた旅の修験者の夢枕に権現様が現れ、言われたままに仙性院という修行場にあった卒塔婆に祈ったところ見事に完治し、のちにここに堂宇が建てられた、とのことだとか。


 境内には筆塚もありました。


 在原塚というのは初めて見ました。これが調べてもよくわからない…


 関係ないですが、水準点もあったりもします。


 仙台市の保存樹木にもなっているイチョウのご神木。樹齢が320年、高さは21mにもなります。
 イチョウは雌雄異株ですが、この木は雄木にもかかわらず実をつけ、雌雄同株である大変不思議…と言われていましたが、実は雄株に雌株を接ぎ木したものなんだとか。

第27回 陸奥国分寺薬師堂・白山神社【若林区木ノ下】

  • 2010.06.23 Wednesday
  • 03:58
【訪問日】2010/03/28
【地図】

 今回は陸奥国分寺薬師堂とその東隣にある白山神社です。陸奥国分寺は奈良時代の740年に創建され、室町時代には著しく衰えますが1601年に仙台に移った伊達政宗により再興されました。現在残っている建造物はすべてこのとき作られたもののようです。


 寺の正面に当たる仁王門。数年前に修復工事を受けており、中には一対の金剛力士像が安置されています。いくつか草履が括りつけられていますが、草履を奉納すると足が速くなると聞いたことがあります。由来は分かりませんが…


 正面に見えるのが薬師堂、右端に少し写っているのは鐘楼。境内は公園のようになっており、礎石が並んでいます。ここの石畳が結構歩きにくいのです。


 薬師堂。結構大きな建物です。


 鳩ども。冬のせいか数が多くありませんでした。余談ですが、私の祖父母の家がこの近くにあり、よく祖母と一緒にここを訪れていたものでした。その際いらないお米(農家だったため)を持ってきてよく鳩にやっていました。気分は鳩マスター。


 社務所の掲示板に貼られていた案内図。左下の整然とした区画はかつて別坊があった場所とのこと。現在は1つしか残っていません。


 薬師堂の東にある七重塔跡

 続いて白山神社に参ります。白山神社は陸奥国分寺創建期(8世紀後半)に地元の守護神として祀られたといわれています。


 鳥居は社殿の近くではなく、仁王門近くに道路に面して建っています。塗装が禿げていてすこしがっかり。


 七重塔跡の目の前にある白山神社。こちらは拝殿。


 拝殿の西側には4つの摂社があります。手前から、須賀神社八幡宮雷神社稲荷神社です。
 須賀神社の名称は「木の下須賀神社」となっていましたが、あの例の見つからなかった須賀神社とは関係は無いと思われます。


 さらに東側には天満宮がひとつ。


 こちらが白山神社本殿。拝殿とは独立して建っています。


 側面から見るとこのような美しい造りをしています。看板の説明文によると「一間社流造」(いっけんしゃながれづくり)という造りだそうです。「一間社」とは正面の柱が2本で、「流造」とは「切妻照屋根」(きりづまてりやね、反りのある屋根)の前方の前が長く伸びた形のことを指すのだとか。

 次回は荒町界隈まで飛びます。


第26回 姥神社・紫稲荷神社【若林区木ノ下】

  • 2010.06.16 Wednesday
  • 03:32
【訪問日】2010/03/28
【地図】

 見つからなかった須賀神社に困惑しながら次の神社へ。姥神社紫稲荷神社。フェンスに囲まれた駐車場の中にあります。


 2つ並んでおり、左が姥神社、右が紫稲荷です。


 姥神社の扁額。合祀されたようですね。姥神社は清水小路にあったようですが、大正地図には「サカサ神」と表記されています。


 両神社の間にあった蔵王大権現と山神の碑。


 道路を挟んだ東隣りは木ノ下公園。仙台三十三観音のひとつである准胝観音堂が見えます。その奥が陸奥国分寺薬師堂となります。


 神社のすぐ南西にある陸奥国分寺本坊。塔が立派ですね。

 次回はいよいよ陸奥国分寺薬師堂。待ってろ鳩ども!

第25回 須賀神社【若林区木ノ下】※発見できず

  • 2010.06.07 Monday
  • 01:18

【訪問日】2010/03/28
【地図】

 神社とは、そう簡単に地図から消え去ってしまうものなのか?
 地図によりますが、木ノ下1丁目に表記がある須賀神社。私の使用している昭文社の地図には表記がありますが、ネットの地図には表記がありません。ちなみに、大正の地図にはちゃんと「天王社」と表記がありますが、場所が若干違っています。

 地図の表記を頼りに現地に行くと…そこには立派な新築住宅が。近所の人にこのあたりに神社が無いか尋ねてみても、期待通りの返事は返ってきませんでした。

 図書館に行きゼンリンの住宅地図を見てみましたが表記無し。しかし、若林の散歩手帖にはあろうことか神社の写真が載っています。この本の発行は意外と最近(いや、そうでもないか)の2000年で、この時期までは神社があったことになります。建っていた住宅は新しさから見て、ここ2~3年に建てられたものでしょうから、神社が無くなったのはつい最近のことではないでしょうか。

 地図に表記がある神社が無かったことは今までに塩竈でありました(土台だけ残っていた)が、私としては移転されたと考えたいです。しかし、このあたりは昔からの住宅密集地なのでそう簡単に近くに手頃な移転先が見つかるのかが疑問な気がします。もしかすると合祀?いずれ、近くにある酒屋さんに尋ねてみようと思っています。

 

 


 

〜以下追記〜

 

読者様からの情報により、連坊にある松音寺の境内に新しい社殿を建てている最中だということがわかりました。

連坊商興会活動HP

 

【訪問日】2018/01/12

 こちらがその松音寺。境内には若林城から移設されたといわれる山門があります。

 

 そしてこれが建設中の須賀神社…だと思われます。扁額等が無いので確認できないのです。失礼して社殿の内部を覗いてみましたが、中には何もありませんでした。

 

『 須賀神社[すかじんじゃ](木ノ下)

 国分寺18伽藍のひとつだったという。牛頭天王を祀り、旧暦6月15日の祭にはキュウリを奉納して豊作を祈るが、子どもの水難よけともいわれる。かつての祭では、御輿(みこし)は河原町の須賀神社まで渡り、その先の広瀬川に入っていった。  』若林区HPより)

 

 松音寺のすぐ隣にあるわけではなく、本堂からは南側の道路を隔てた墓地の西端に位置しています。写真右奥に見えるのが松音寺の建物です。

 

 神社の完成が楽しみですね。

 

第24回 白鳥神社・薬師堂【若林区表柴田町・木ノ下】

  • 2010.06.06 Sunday
  • 04:27
【訪問日】2010/03/28

 北上もそろそろ終わり。今回は白鳥神社薬師堂です。


 まずは白鳥神社です。前回の箱石神社と同じように、この場所に移り住んだ旧柴田郡平村(現大河原町金ヶ瀬)の住人たちが故郷の大高山神社御祭神を祀ったものと言われています。【地図】


 あんまり社殿だとは思えないような外観。失礼して中を覗くと、案の定中は集会所で、賽銭箱だけが置かれていました。本殿はちゃんと裏にありました。



 こちらは白鳥神社のすぐ近くにある薬師堂。すぐ左は住宅、右の建物は看板屋さんです。ここは陸奥国分寺の子院があった場所(陸奥国分寺薬師堂の張り紙より)なので、おそらくそれに関係したものだと思いますが、だとすると他の子院があった場所に何も残ってない理由がよくわかりませんね。【地図】

 次回でしばらく続いた北上は終わりますが、…神社ってそう簡単に消えるもの?

第23回 箱石神社【若林区成田町】

  • 2010.06.06 Sunday
  • 04:21
【訪問日】2010/03/28
【地図】

 しばらく更新していませんでしたが無害です。坪沼八幡神社とか行ってきました。

 城取神社から続いている北上はまだ続き、箱石神社です。この場所に移り住んだ旧桃生郡成田村の住人が、郷里の産土神を分社したものだそうです。


 正面から。参道は意外と長く、ベンチが置いてありました。


 社殿。右は集会所です。


 社殿の裏に回ると公園となっていますが、遊具が錆び錆びでした。境内社がありますが、確認してこなかったので何のものかはわかりません。県神社庁では境内に不動尊堂あり、と書いてあるのでこれがそうなのかもしれません。


 摂社の更に後ろにあった謎のオブジェ。


 社殿に掲げられていた額たち。おそらく、上の写真のオブジェは森さんのものなのでしょう。佐々八幡神社は箱石神社に合祀されたもので、先程の境内社とは無関係だと思います。

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