第93回 朴沢八幡神社その1【泉区朴沢】
- 2010.11.15 Monday
- 00:21
【訪問日】2010/05/06
【地図】
先日、朴沢地区を探索してきたので、記憶が薄れないうちに記事にしておこうと思います。
朴沢八幡神社。泉区朴沢部落のほぼ中央に位置します。この日は泉区西部から芋沢地区、中山地区へと回っていました。「その1」の今回は、春に探索したときのものをご紹介します。
神社入り口。国道から少し離れた位置にあり、お寺の脇から国道を曲がり、自動車ではすれ違いのできない道を進むことになります。これは一の鳥居で、奥の石段の手前に二の鳥居があります。
鬱蒼としている参道。
参道から少しそれた場所にある堂宇。『泉市誌』によれば、これは別当であった威光山大性院が荒廃して本尊を岐阜の寺に譲渡、本堂を宮城野区の大蓮寺に売り渡した際、残った仏像や仏具類を納めたもの…らしいのですが、中には1体の観音様がごろりと横たわっているだけでした。ほかの物はどこにいったのでしょうか?
参道を進むと、この場所にはおおよそ似つかわしくない大きな社務所が出迎えてくれます。
社務所をくぐりさらに石段を登ると、やっと社殿に辿り着きました。
朴沢八幡神社。祭神は応仁天皇です。県の神社庁によると、「南朝の忠臣朴沢蔵人なる者、この地を領し元和元年大阪夏の陣より凱旋の際、京都の八幡宮より分霊をこの地に奉祀したと伝えられる。(社伝)。又封内風土記は推古天皇の御宇一皇子の勧請するところと記している。明治8年3月村社に列格。明治42年沢口山、樋ノ口の2社を合祀した。」とのこと。
「村社」の文字が誇らしげに見える(ような気がする)社殿の扁額。
社殿左側にある境内社2つ。右側のは熊野神社です。
こちらは社殿右側の境内社。一番右の堂宇の中には貝孔石神が祀られています。堅い安山岩にカモメ貝の一種が多数の巣穴を作ったもので、疱瘡神として信仰されています。写真を載せたいのですが、若干気持ち悪い(石に穴がボコボコ開いている)ので、見てみたい方はこちらをどうぞ。私が見たくないだけなのですが。
こちらは参道の途中にある鐘。
鐘があれば撞きたくなるのが人の性ってもんです。
【地図】
先日、朴沢地区を探索してきたので、記憶が薄れないうちに記事にしておこうと思います。
朴沢八幡神社。泉区朴沢部落のほぼ中央に位置します。この日は泉区西部から芋沢地区、中山地区へと回っていました。「その1」の今回は、春に探索したときのものをご紹介します。
神社入り口。国道から少し離れた位置にあり、お寺の脇から国道を曲がり、自動車ではすれ違いのできない道を進むことになります。これは一の鳥居で、奥の石段の手前に二の鳥居があります。
鬱蒼としている参道。
参道から少しそれた場所にある堂宇。『泉市誌』によれば、これは別当であった威光山大性院が荒廃して本尊を岐阜の寺に譲渡、本堂を宮城野区の大蓮寺に売り渡した際、残った仏像や仏具類を納めたもの…らしいのですが、中には1体の観音様がごろりと横たわっているだけでした。ほかの物はどこにいったのでしょうか?
参道を進むと、この場所にはおおよそ似つかわしくない大きな社務所が出迎えてくれます。
社務所をくぐりさらに石段を登ると、やっと社殿に辿り着きました。
朴沢八幡神社。祭神は応仁天皇です。県の神社庁によると、「南朝の忠臣朴沢蔵人なる者、この地を領し元和元年大阪夏の陣より凱旋の際、京都の八幡宮より分霊をこの地に奉祀したと伝えられる。(社伝)。又封内風土記は推古天皇の御宇一皇子の勧請するところと記している。明治8年3月村社に列格。明治42年沢口山、樋ノ口の2社を合祀した。」とのこと。
「村社」の文字が誇らしげに見える(ような気がする)社殿の扁額。
社殿左側にある境内社2つ。右側のは熊野神社です。
こちらは社殿右側の境内社。一番右の堂宇の中には貝孔石神が祀られています。堅い安山岩にカモメ貝の一種が多数の巣穴を作ったもので、疱瘡神として信仰されています。写真を載せたいのですが、若干気持ち悪い(石に穴がボコボコ開いている)ので、見てみたい方はこちらをどうぞ。私が見たくないだけなのですが。
こちらは参道の途中にある鐘。
鐘があれば撞きたくなるのが人の性ってもんです。