第114回 泉薬師堂、笈分阿弥陀如来堂【泉区福岡】
- 2011.03.11 Friday
- 00:01

工場の脇の未舗装の道を進んでいくと薬師堂が見えてきます。夏場は草が茂っていそうです。

正方形の薬師堂。薬師如来は正しくは薬師瑠璃光如来といい、廃仏毀釈の際に薬師神社と改称されて鷲倉神社に合祀されましたがその後も祭典が続けられ、戦後に復興しました。

続いて笈分阿弥陀如来堂(おいわけあみだにょらいどう)。納められている阿弥陀像は県の重要文化財に指定されています。【地図】

笈分阿弥陀像の由緒の説明板。
『宮城県指定有形文化財 木造阿弥陀如来像
像の高さ98.8cm桧材寄木造(ひのきさいよせきづくり)、玉眼(ぎょくがん)、漆箱の阿弥陀如来像で鎌倉時代の作といわれている。
山形県寒河江市慈恩院の僧覚長がかねて快慶に頼んでおいた阿弥陀像が出来あがったので持ち帰った。
快慶はあまりの出来ばえに別れを惜しみ、覚長の後を追いもう一度拝もうと笈(おい)を開いて見ると像は二体になっていた。快慶と覚長は一体ずつせおって別れたという伝説があり、そこから笈分阿弥陀如来ともいわれている。
この像を安置する阿弥陀堂は貞享5年(1688)伊達綱村の寄進により建てられたが昭和28年に焼失し、その再建が図られ地元有志が寄進と宮城県および泉市の援助により、昭和46年収蔵庫が建設された。
福岡川崎笈分阿弥陀如来像保存会』
仏像が2つに分かれるのはあり得ないことですが、同じような伝説が京都の蓮光寺にもう片方の仏像とともに伝わっており、なんだか本当に信じてしまいそうです。「笈」とは背中に背負う経文などを入れる箱のこと。

沢山のお地蔵さまが祀られていました。
【以下追記】2013/11/07再訪

秋の笈分阿弥陀如来堂。

堂宇はコンクリート造りです。
以下、『泉市誌』より由緒。
『本尊は高さ98.8cm、檜材寄木造、玉眼入漆箔、上品下生の来迎相である。作者は鎌倉時代の仏師快慶といわれている。
これと同形の仏像が京都五条下寺町の蓮光寺にある。当地福岡では笈分如来と呼んで尊崇しているが、蓮光寺の方では負分如来となり、ほとんど同じような伝説をもっているので、両縁起を照合すると、大体次の通りである。
今から740年の昔四条天皇の御宇、羽州村山郡慈恩院の僧、覚長(蓮光寺縁起では覚長阿闍梨、当地の由来では覚長僧都)が京都の仏師、安阿弥快慶に依頼して阿弥陀像を作ってもらった。快慶は我ながらあまりの出来映えに心残って、負って帰る覚長を江州草津(蓮光寺では山科)の里まで追い、覚長に頼んで礼拝をと笈(蓮光寺では唐櫃)の扉を開いたら、不思議なことに瓜二つ、二体の仏像になっていた。狂喜して二人は本仏、化仏と区別のつかないまま一体ずつ分け合って西と東に分かれたという。
いったん慈恩寺に帰った覚長は、如来のお告げで再び笈を負い、山を越え仏の命ずるままこの川崎の地に祀った。四代藩主綱村(亀千代)も厚く帰依し、貞享5年(1688)に御堂を寄進した。その後明和元年(1764)、仙台榴岡の願行寺に1ヶ月間の出開帳を行い、喜捨された浄財で、光背と台座の補修をしたと伝える。』(『泉市誌』下巻P291〜292より引用、一部改変)

「南無阿弥陀仏」と刻まれた享保3年(1718)の石碑。

お地蔵様も多く祀られています。

これまたコンクリート作りの仏塔。

堂宇の前には1本の木がそびえます。
ここの道路の向かいにはコンビニがあるので、そこでの休憩ついでに訪れて見てはいかがでしょうか?
