第164回 両滝不動尊(見松寺)【泉区西田中】

  • 2015.08.21 Friday
  • 23:44

【訪問日】2013/07/21
【地図】

DSCF4053.JPG
高台に並ぶ不動尊像。

今回は、泉区にある両滝不動尊をご紹介します。不動尊といっても水場にあるわけではありません。住吉台の北側、西田中にある見松寺の境内に祀られています。
 

DSCF4054.JPG
見松寺の本堂の左側、墓地の一番高い場所に両滝不動尊は鎮座しています。

DSCF4052.JPG
厳しい形相で並ぶ2体の不動尊像。

少し長くなりますが、以下がこの不動尊の由緒です。


『 7、両滝不動 福岡延寿山

 花輪川の上流、延寿山東麓の深い渓谷に鉱泉があり、藩政時代から延寿の湯として栄えた。』
(『泉市誌下巻』P303)
  

『 5 延寿山両滝不動明王
 

 福岡延寿より宮城町白木への道路(定義如来参道でもある)を1km余り登ったところ(座禅堂山頂上が望め、また永安禅寺の裏門でもあった)に径1.5mほどの大松があった。先年の落雷で焼けたが、ここから200mほど下降し、さらに50mほどの断崖下の深い渓谷にかかる滝に祀られてある。西田中の上田中屋敷早坂家数代前の人が、安政ころ祀った不動尊である。後年分家二人と三人で祀っている。(中略)

 …明治22年の大洪水で尊像と入り口に立てた開山の碑が300m余り流された。このころから縁日の祭りは途絶えたらしい。大正の末ごろ早坂家は一度火災に遭い、間もなく分家も焼けた。また分家の当主が若いころ眼をひどく病んだ。祈祷師から先祖が祀った不動尊を祭らぬ神罰だと告げられ、流された不動尊を探した。片腕の折れた尊像を200m下流で発見して復旧したが、1m余もある開山碑は300mも下流で発見したものの、急勾配の狭い谷川で重くて運べず、やむなく谷川沿いの山地にかろうじて据え、以来一族三軒で旧3月28日と9月28日の縁日にお祭りをしている。このせいか分家当主の失明直前の眼も平癒したという。碑には安政4年(1858)延寿山両滝大聖不動明王、開山早坂太惣右エ門喜篤と刻まれている。

 この不動滝下流100mの谷川の傍らに、古くから鉱泉が湧き皮膚病や疵(きず)に効くといわれ、ひところはたくさん湯治する人があった。今も仮小屋があって湯治する人もいる。100数十メートルも深い谷底の、空が狭く見える渓谷であまり人はよりつかない。』
(『泉市誌下巻』P802〜803、一部省略)


『 両滝不動(りょうだきふどう)

 見松寺本堂に向かって左側の階段を上ったところにあり、延壽山兩滝大聖不動明王と言う。もとは、福岡延寿から定義に向かい1km余り登ったところから、左の谷を200mほど下り、さらに50mほどの断崖の下の深い渓谷にかかる滝に祀られていた。平成4(1992)年頃にヘリコプターで運ばれ現在地に安置された。』
(『ぶらっと根白石』P38)


なんと現在地にはヘリコプターで運んでから移設したようですね。以前の鎮座地は訪れるのによっぽど困る場所だったことが資料からも窺えます。

DSCF4051.JPG
不動尊像の前にある開山碑。上記の由緒にもあったとおり、「延寿山 両瀧大聖不動明王」と刻まれています。


見松寺を訪れた時にはちょうど法事が行われており、その参加者たちに怪訝な目で見られました。まあ確かに観光地でもないお寺の墓地で写真撮ってたらそうなりますよね。
 


 


DSCF4055.JPG
さて、見松寺を後にして泉区小角の大満寺にも足を延ばしました。そこに祀られている三日月不動尊を見るためでしたが、どうもお寺の本堂の中にあるらしくあえなく断念しました。写真は大満寺にある古内主膳重広の墓です。

DSCF4056.JPG
墓前にある説明版。

『名称  古内主膳重広の墓(ふるうちしゅぜんしげひろのはか)
 年代  万治元年(1658年)ごろ
 所在地 仙台市泉区小角大満寺5


 古内主膳重広は国分盛重の末子であり、仙台藩初代藩主伊達政宗は従兄弟にあたる。
 慶長元年(1596年)政宗との不和により盛重は急襲され、一家は離散、当時7歳の重広は家臣により国分寺に匿われた。数日後、追手の目を逃れ、根白石の古内家に逃れた。
 古内家の養子となり、慶長13年(1608年)重広が20歳を迎えたころにのちの仙台藩二代藩主伊達忠宗の馬術指南のため召抱えられた。
 その後、大坂の陣やその他の戦で功を得た。
 奉行職を経て、伊達家家老となり、伊豆野原を賜って新田開発に傾注し、荒れ地を美田に変えた。
 その後、名取郡岩沼要害を賜り、岩沼古内家の祖となり、最終石高14,950を領した。
 万治元年(1658年)た忠宗が没すると重広も殉死した(享年70歳 法名:景嘯院殿仁岩總徳居士)。
 忠宗供養のために建立された毘盧遮那仏(るびしゃなぶつ)の石像、古内重広、内室高木氏、嫡男造酒祐重直(みきのすけしげなお)、また重広とともに殉死した家臣、木名瀬小右エ門、中山藤右エ門、鈴木文右エ門3名の墓碑がある。』



古内氏と聞くと伊達騒動で名前が挙がる古内志摩義如が思い浮かびますが、伊達騒動は寛文11年(1671年)の出来事なので重広はそのときすでに亡くなっているのですね。
 

 

コメント
コメントする








    
この記事のトラックバックURL
トラックバック

calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

recent trackback

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM