【訪問日】2010/09/23,2011/03/08
地震後に新聞に掲載された
浪分神社と
狐塚の地震前の姿。
狐塚。左側は県道塩釜亘理線。近づける道が無く、ぬかるんだ畦を歩くしかありませんでした。
【地図】 私の大っ嫌いな蜘蛛が大量にいました。
祠は小ぢんまりとしていました。
2011年5月26日付の河北新報には「竹駒神社と塩釜神社を行き来する『おキツネさまの休憩所』と伝えられてきた」と記されています。それが本当であった
かどうかはさておき、狐塚という地名は全国に存在します(市バス東部工業団地線の終点も「狐塚」ですね)。民間信仰において狐は田の神の使いだと考えら
れ、元は田の近くに塚を築いて祭場とし、後に稲荷神を勧請して祠を建てたりしました(
Wikipediaより)。この場所もよくある祭場のひとつだったのでしょう。お社は17年ほど前に造られたそうですが、その前から小さな石祠や石碑の類はあったのではないでしょうか。
浪分神社。ここを訪れたのは地震の3日前でした。
○浪分神社(なみわけじんじゃ)
【地図】
【祭神】不明
【旧社格】旧村社(旧霞目村)
【備考】若林の旅立稲荷神社に合祀
道路に面した社殿。向かい側にはコンビニがありました。
鳥居の脇にはお地蔵さまが祀られていました。
若林区のHPによると、「元来は元禄16年(1703)に霞目の八瀬川に建てられた稲荷社だったが、天保6年(1835)に現在地に移されて浪分神社という名になった。七郷一帯は標高が低く、昔から津波や洪水の被害が大きかった。慶長16年(1611)の慶長大津波では霞目まで水が押し寄せ、1700人を越える死者を出している。天保期に、慶長の大津波が二つに分かれて引いた場所に稲荷社を移し、津波よけの神社とした。この神社には、白馬にまたがった海神が大津波を南北に分けて鎮めたという伝説がある。」とのこと。ちょうど神社が微高地にあったために津波が分かれたのでしょう。869年の貞観津波の際に建てられたという説もあります。
このような神社があったからといって、今回の津波において「教訓を生かすことができなかった」と言うつもりはありません。地質調査(ボーリングで地中の津波時の堆積物を採取し、年代を測定します)の結果では、おおよそ1000年周期で同規模の津波が仙台平野に押し寄せてきていたことになるそうです。